那古野(なごの)ってどこ?

蔵
四間道に建ち並ぶ蔵
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那古野(なごの)とは、愛知県名古屋市中村区と西区にある町丁名、または円頓寺商店街、四間道界隈の古い町並みが残る界隈をさします。

名古屋駅からみて北東方向、徒歩圏にあり近い割には比較的静かな場所です。名古屋でも屈指の下町であり、最近では、古民家や蔵を改装したお店が増えてきています。

特に堀川沿岸の四間道は1986年(昭和61年)に名古屋市の街並み保存地区に指定され、伊藤家住宅などの歴史的な建造物が残されています。

那古野の由来

かつて愛知県愛知郡に存在した那古野村(なごやむら)が、1898年(明治31年)8月22日に名古屋市に編入され、1902年(明治35年)に那古野町(なごのちょう)となりました。
そして、1977(昭和52年)年以降3回にわたる住居表示実施により、西区志摩町・沢井町・那古野町・五条町、中村区小鳥町 ・大船町などが合わさって「那古野(なごの)」となりました。

現在の町丁としての「那古野」は、西区那古野一丁目と二丁目、中村区那古野一丁目があります。

見どころ地図

那古野といえば四間道と円頓寺

四間道(しけみち)

四間道
四間道の石の標識

西区に流れる堀川の西側2本目の道が四間道です。ちなみに1本めは美濃路です。

石垣の上に建つ土蔵群と軒を連ねる町家が、通りに面して建ち並んでいます。今も残るこの景観は、元文年間(1740年頃)に形成されました。

1610年(慶長15)からの「清須越」により名古屋城下町が誕生しました。その時、開削された「堀川」の水運と、その西岸を通る美濃路により、城下物流の拠点が形成されました。美濃路の西側に商家の主屋が並び、その西側の道筋は商家の裏蔵と町家が並んでいました。
堀川の水運を利用して米殻、塩、味噌、酒、薪炭などを城下町へ供給して繁盛しました。

1700年(元禄13)この地域を襲った大火の後、町中の延焼を避けるため、美濃路の西側にある道筋の幅を4間(約7m)に広げ、その東側は石垣の上に塗籠めの蔵、西側には町家が並ぶ景観はこの時から生まれました。

このことから「四間道」という名がついたと言われ、四間道界隈は、名古屋開府以来400年の歴史と文化が残されいます。 「湿気道」「四軒道」が由来という説もあります。

清須越(きよすごし)

1610年~1613年に行われた、尾張の首府移転を清洲越といいます。

「徳川家康」の命により、それまで150年近く尾張の首府であった清須の町がそのまま全て、人工6~7万の人々と共に、名古屋へ移りました。清須は低湿地のため、徳川の時代を象徴する活力ある首府を、名古屋台地の上に創ることにしたものです。

清須城の天守閣や石垣、城門などの他、130を超える寺社、武家屋敷、町家、五条橋まで移されました。70にも及ぶ清須の町名も移し、町人はもとの町内に居住しました。

美濃路

美濃路は東海道宮宿(熱田区)から、名古屋、清須を経て中山道垂井宿(岐阜県垂井町)と合流する街道です。宮宿と桑名宿の間が海路で天候に左右される東海道より、陸路である美濃路がよく利用されました。

6つの宿場があり、全長は約58km。戦国時代には信長の桶狭間の戦い、秀吉の小田原征伐、家康も関ヶ原の戦いで凱旋した街道となりました。

1622年、庄内川に枇杷島橋が架けられてからは、枇杷島の青果市場(清須市西枇杷島町)と城下との往来で賑わいを見せました。

円頓寺(えんどうじ)

円頓寺商店街
円頓寺 東の入り口

円頓寺は、那古野(なごの)にあるる長久山圓頓寺(えんどんじ)の門前町として広がっている名古屋で最も古いと言われる商店街の一つです。名古屋の城下町形成と共にできた街であり、随所にその面影を残しています。

市道江川線を境に円頓寺通(円頓寺商店街)と円頓寺本町通(円頓寺本町商店街)に分かれています。円頓寺本町通の西には西円頓寺商店街もあり、西端は名古屋駅にほど近いです。

七夕まつりやパリ祭など様々なイベントが開催

円頓寺商店街では年間通じてイベントを多く開催しています。
毎月第一日曜日にはフリーマーケット「ごえん市」、毎月第一土日には「着物日和 in 円頓寺・四間道界隈」、毎年7月には円頓寺本町商店街と共同で開催される「円頓寺七夕まつり」がおこなわれ、秋には「金刀比羅神社例大祭」「円頓寺 秋のパリ祭」も開催され、多くの来街者で賑わいます。

五条橋

五条橋
五条橋

五条橋は、名古屋城築城と同時に開削された堀川で初めて架けられた橋です。

元は清須を流れる五条川に架かっていましたが、清洲越の際一緒に移されました。その後何度も改築され、現在の橋は昭和13年のものです。

鉄筋コンクリート造りであるものの、木橋の形をそのまま残していて、石の欄干、石畳、御影石の親柱、擬宝珠(ぎぼし)が特徴です。

名古屋市の都市景観重要建築物に指定されています。

五条橋の風景

石畳

五条橋の石畳

御影石の親柱

御影石の親柱

擬宝珠

擬宝珠

擬宝珠(ぎぼし)には慶長7年(1602)と刻まれています。堀川の開削は慶長15年(1610)ですから、8年前に清須で作られてものが運ばれてきたということがわかります。現在は複製されたものが取り付けてあり、本物の擬宝珠は名古屋城に展示されています。

屋根神さま

屋根神さま
屋根神さま

屋根の1階ひさし屋根や、軒下などの設置された神さまです。屋根に祀ることから「屋根神」と呼ばれるようになり、住宅開発が進む現在では、屋根から下ろしている所もあります。

火伏せの秋葉神社や厄よけの津嶋神社のほか、氏神(名古屋では熱田神宮)を祀り、町内や隣組といった地域の小組織で祭祀を行います。

名古屋市内全体で約113ヶ所あると言われ、うち西区に53ヶ所、そしてこのエリアに約40ヶ所と集中しています。

子守地蔵尊

子守地蔵尊
子守地蔵尊

四間道の路地を1本西に入った細い路地の奥にあるのが子守地蔵尊です。

この付近で井戸を掘っていたときに、お地蔵さんが出てきたので現在の場所に建てられたそうです。

伊藤家住宅(愛知県指定文化財)

伊藤家住宅
伊藤家住宅(愛知県指定文化財)

伊藤家は慶長19年(1614)に移住した清洲越十人衆の商人で、現在の伊藤家は分家に当たり、亨保7年(1722)現在地に移住しました。
松坂屋の始まりである伊藤家と区別して川伊藤家と呼ばれています。

江戸中期の住居と元禄期の防火建築の典型の土蔵は、昭和39年名古屋市指定文化財。昭和62年愛知県指定文化財。

堀川

堀川
堀川 と桜橋

名古屋市を南北に流れる川で、那古野の一番東に位置します。

1610年~1611年、清洲越に当たり、名古屋城や城下町建設のための素材や生活物資供給のため、堀川が開削されました。朝日橋から熱田白鳥まで約6kmをおよそ1年で完成させました。豊臣に縁の深い福島正則ら20の大名が普請総を命じられました。

清洲越以降、堀川は城下への物流の大動脈として大きな役割を果たしてきました。今ではその役割を終え、都市の親水空間を目指し、水質浄化と護岸整備が図られています。

出典元

  • 四間道かわら版 第1版
  • ものづくり文化の道 名古屋市西区役所 発行パンフレット
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